toggle
2018-05-27

「身体がつくるリアル」Operacity Art Gallery Project N 2011年 佐山由紀

身体がつくるリアル―― 吉田夏奈のドローイングについて 

本展会場のコリドールいっぱいに展開される風景《Beautiful Limit ― 果てしなき混沌 への冒険》の前半は北アルプスの山々で構成される。たとえば吉田夏奈が「奥穂高岳へ 向かう重太郎新道から見たジャンダルムの側面」,「足がすくんで下が見られなかった岩 壁のトラバース」,「疲労の震えでなかなか降りられなかった急勾配のガレ場」「パーティ ーが自分を置いて先に行ってくれと言った地点」などが出現し,その間に高度 2000 m 付近に生育する常緑低木のチングルマやハイマツが生い茂っている。明確に“部分” が 実在するが,現実にはない風景は,吉田の身体感覚にあわせて「詰め込まれた」世界で ある。彼女にとってのリアリティは,自分の身体で捉えることが可能な断片の,ごつごつ とした連続の中にこそ存在するのだ。異なるスケールや遠近感が混在し,あちこちが歪 んでも躊躇することなく,吉田はどんどん描き進む。 

ヨセミテ,イエローストーン国立公園,ニューメキシコ,ボルネオのキナバル山,ノルウェー のソグネフィヨルド。大自然の中に出かけることそれ自体を創造的行為と呼ぶかどうかは 知らない。だが吉田が「ただ行きたくて」臨む登山や冒険活動は,作家としての日常の知 覚の領域を拡張する刺激的な体験だろう。彼女がそれを絵画制作という方法でアウト プットしようとするのは,私的な経験を誰かと共有したいという気持ちからではなく,あり のままに言えば,そうせずにはいられないからだと思う。自己に取り込んだ世界を見た り触れたりできるものにしたいという根源的な願いが吉田を動かしている。 

1998年頃からパフォーマンスやアートプロジェクトの経験を重ねていた吉田が絵画制作 に着手するきっかけとなったのは,2003年の曽根裕の企画による秋吉台でのワークショ ップ「理想の洞窟」への参加であった。真っ暗な洞窟の中でサーチライトを装着し,「光 り輝く瞬間を求めて」行うデッサンは,吉田の感覚をそれまでになく解放するものであっ たという。見えないけれども,もともとそこにある何かを素手で探るようなこの体験によ って,吉田は知覚で到達可能な領域の向こうに広がる世界を想ったに違いない。そし てそこへ到達するための方法を,彼女は今なお模索している. 

時として自然は私たちの知覚をすり抜けてゆく.吉田のドローイングとは,線を引くことで 身体感覚で受けとめきれなかった自然の“部分” と“全体” を見直すことである.すなわち, 圧倒的な存在感で目の前にあった山の稜線を辿り,恐怖と闘いながら一歩ずつ踏みし めた足下の岩を紙の上で凝視し,360度全方位から身体を包み込んでいた“気” の記憶 を,忠実に画面に置き換えるのである.吉田の制作は,旅の道程で遭遇した「ありえな いような風景」を写真で記録することから出発した.そしてそれらをもとに記憶に残る場 面のデッサンを描きおこし,繋ぎ合わせることでパノラミックな風景を創り出すようになっ ていった.かつて「なぜドローイングなのか」という問いに対し,吉田は「写真ではずる いような気がして」と答えているが,写真の再現性にもグーグルアースの仮想空間にもな い「体験的な場所のリアリティ」は,彼女自らの身体と,身体が生み出す時間をもっての み定着させられるものなのだ. 

一連のドローイング制作において,吉田の関心は画面を作り上げることよりも,身体の記 憶をとどめる線にあるようだ.《Beautiful Limit――》では微妙に色味の異なるグレーや 赤茶色の単色のクレヨン(もしくはオイルパステル)による線が,微かな強弱の均衡を保ちな がら岩の形状の一つ一つを丹念に描き出している(ちなみにこれらの画材は既製品を一度 溶かし,吉田の求める色に調色して成形したオリジナルだ).その膨大な線の集積が CGのワ イヤーフレームのような網目となってびっしりと全体を覆い,山の起伏の構造だけを露わ にする.画面と手の親密な距離から生まれる緻密な線は,吉田が確かにこの山に挑み, この画面と対峙したことを二重に彷彿させる.陰影も背景も描き込まれない白抜きの画 面は,線の孕む時間の重さを携えてずしりと迫ってくるのである. 

生きる軌跡をきざむように,吉田の手は止まることを知らない.全長 40mに及ぶ壮大な風景画の制作は,本会場での展示の後も100mを目指して続いてゆくそうだ.長い道程を進みながら,吉田の世界はどのような変化を遂げてゆくだろうか.吉田の「Beautiful Limit」が大いに拡大し,ごつごつとしたリアリティの断片が,ある日「夢の中でヨセミ テとノルウェーのフィヨルドが一つになる」ように,吉田の身体を介していつしか一つに溶 け合うことを願っている. 

注)Beautiful Limitとは:  危険を伴う秘境のなかに身を置き,その場所が自分の美しいと認識する感覚を超えたとき、ある種のパニック状態(=ショック) に入る.そういった初体験の場所では,そこが美しいと感じるよりもむしろ,恐れや不安を感じる場合の方が多く,潜在意識で知覚 し始めようと私の脳は働きはじめて行く.しかし時間が経過すると,パニックを受けたその場所は自身の過去最高に美しい場所とし て私の脳に新たにインプットされる.そのような意識の拡大を私はBeautiful Limitの拡大とよんでいる.[吉田夏奈によるテキスト] 

[東京オペラシティアートギャラリー/佐山由紀] 

Others